男あるじは、わが輩の縁の下の庵に来るなり、のっけから朗読をしだした。
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」  わが輩は何のことかわからずに、口をあんぐりと開けて、男あるじの顔を見つめた。男あるじは、
「これは日本の古典中の古典ともいうべき『平家物語』の冒頭の一節だ。どうだな、意味はわからないだろうが、調子の良い文章だろう」と、わが輩に同意を求めてきた。同意を求められて困惑しているわが輩をすがめに見て、男あるじは、
「これは、琵琶のしらべにあわせて語られたものなのだ。遠く鎌倉時代の中頃(12世紀末)に生まれたという。伝承によれば、信濃前司行長が物語を書き、東国生まれの盲目の僧の生仏が語ったらしい。それ以来、盲目の琵琶法師によって平曲として語られ、伝承された。語り物なので、文章も七五調で記されていて調子がよいな。琵琶の調べは哀調を帯び、語られる内容も平家の奢りと滅びの顛末が語られるので、聞く人の哀感を誘う」
  なるほど、これが平家物語というものなのか。噂には聞いたことがあるが、いまでは伝承する人も少なく、実物の語りを聞く機会はとんとないようだ。わが輩も、一種の浪曲のようなものかと考えたが、どうもそうではないらしい。こんなことを思案していると、男あるじは、
「浪曲か、浪花節のことだな。小学生の頃はラジオからよく調子の良い節が流れていた。いまでも、広沢虎造の森の石松30石船道中の『馬鹿は死ななきゃ直らない』や、浪花亭綾太郎壺坂霊験記の『妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ』といったフレーズをいまでも覚えてるな。まさに浪花節の真骨頂で、日本人の義理と人情を刺激する。平曲は、盲目の琵琶法師によって語られていることから庶民向けの娯楽だったに違いない。そして、当時の人々に平家の興隆から没落までを奏で、人の世の無常を詠ったのだろう」と話した。
  わが輩は、義理とか、人情とかさっぱりわからないが、きっと、人の世には切っても切れない絆というものあるようだ。わが輩たちイヌの世界では、それぞれ独立心が旺盛なので、他人様との関わりは最小限に抑えている。わが輩も他犬様との間で無用なトラブルを起こさないよう最低限の配慮はする。そうでなければ、ワンワン、キャンキャンと吠えあい、生傷も絶えない。このような配慮を義理と犬情というならば、それはもっている。つまり、他との間に無用なトラブルを起こさない範囲での配慮であって、人間世界のように、これに拘束されるなんて馬鹿なことはしない。義理チョコ、義理お歳暮なんてことはしないわけだ。こんなことを思っていると、男あるじは、
「いま話しているのは浪花節ではなく、平家物語のことだぞ。これは、もっと奥が深く、人生は諸行無常と断じ、その好例として平家の滅亡を挙げている。よいか、無常とは、仏教の根本となる教えで、この世のすべての生きとし生きるものは生きそして滅し、とどまることなく常に移り変わるというもの。それ故に、人は仏に帰依し、仏のような永遠の命を得るべく修行しなさいと教えている。平家の公達のように、この世の栄華を謳歌しても、所詮、それは一時のことで、夢幻のごとくに潰えてしまったではないか。きっと、平家物語の作者は、このような当時の人々の思いからこの物語を叙述したのだと思うよ」と語った。
  わが輩には無常などといわれても実感がない。ただ、わかっていることは、いま、わが輩は確かに生きていて、これからもより良く生きたいと望んでいることは確信できる。

「初霜や 朝陽を浴びて 溶け行くか」 敬鬼

徒然随想

-平家物語 1